2025年問題が叫ばれて久しくなりました。1947年~1949年生まれの団塊の世代約800万人が2015年に前期高齢者(65歳~74歳)となり、その世代が後期高齢者(75歳以上)となるのが2025年とされています。
なぜ問題なのかと言えば2025年にはその後期高齢者人口が2200万人にまで膨れ上がり介護・医療費などの社会保障費の急増、財政圧迫(すなわち増税?)が懸念されるからです。
介護・医療費急増の主な理由に”認知症患者の急増”が懸念されています。
高齢になるにつれて認知症に罹患する人も増加していくため、それに対する社会的な対策が必要とされています。
認知症とはいったいなに?
そもそも認知症とはいったい何でしょうか?
その定義は「生後いったん正常に発達した種々の精神状態が慢性的に減衰・消失することで、日常生活・社会生活を営めない状態」とされています。
特に”生後いったん正常に発達した種々の精神状態”というところがポイントで、生まれ持った精神発達遅滞や発達障害が関連する障害は認知症とは呼びません。
上記からもわかるように認知症はあくまでも症状(正確には症候群)の一つであり、病気そのものの名前ではないのです。
認知症を発症するいくつかの代表的な疾患があり、それらは加齢により増加していきます。
これらの疾患患者の増加が昨今の社会問題となっています。それではここにある一人の患者さんの例を挙げて紹介していきます。
典型的な認知症がどんな風な経過をたどるのかあえて経時的に示してみましたので参考になれば幸いです。
時系列で見る認知症の進行
認知症の兆候
85歳 女性。夫と息子夫婦、孫2人の6人家族で暮らしていました。
専業主婦で、花壇の世話が趣味、子供のころから穏やかな性格で周囲への気配りもできる人柄でした。
しかし、80歳頃から自分が言ったことや簡単な約束事を忘れる、干してある洗濯物のしまい忘れが多くなるなど物忘れが目立つようになってきました。
そんなことも最初は年のせいだと笑い話で済ませていましたが、それから約1年が経過してくるといつも慣れているはずの食材の買い物を間違えることが多くなります。
気分にもムラがみられるようになり急に前触れもなく孫に対して怒鳴ってしまうこともありました。
最近では表情も乏しく、周囲への関心も少なくなり、数十年来の趣味であった庭の花壇の世話もやらないことが増えてきました。
診断結果は”アルツハイマー型認知症”
心配した息子が近所の医院へ相談し、近くの市民病院へ紹介され、そこでアルツハイマー型認知症と診断されます。
診断時82歳でした。当面は認知症薬を処方され、これを内服していく方針となりました。
その後は、食事中の会話も少なくなり、みんなが談笑するとこれに合わせるようにして笑うことが増えます。
外出先での人との接触や会話は極力避けるようになり、買い物などで店員に話しかけられるとやりとりの一つ一つを一緒にいる家族の方へ振り返って確認したり、適当な返事をして取り繕いをしたりするようになっていきました。
”物盗られ妄想”が始まる
83歳になったある日、「財布が盗まれた。泥棒が入ったよ!」と騒ぎながら警察に連絡することがあり、自宅まで警官がやってきました。
結局、財布はなくなっておらず自分の部屋にあったためその場は収まりましたが、その後から女性は「本当は財布を盗ったのはあんたたちでしょ!?」と家族を疑うようになり、それをきっかけに自室にこもるようになっていきました。
いわゆる被害妄想が始まり、財布をはじめとして自分の大切な物品が見当たらないと家族が盗んでいると考えるようになりました。
その頃から、もともときれい好きであったはずの女性の部屋はちらかりっぱなしになり、自分でお金や衣類の管理ができなくなっていきました。
自宅付近を徘徊するように
また決まって夕方になると「そろそろ帰らなくちゃ」と言いながら自宅を出て自宅を探して近所をうろうろとあてもなく歩き回るようになりました。
家族がここが自宅であることを伝えても頑として受け入れず、「自分を帰さないようにここに閉じ込めている」と怒りだしてしまうこともしばしば。
そんな時に家族が目を離した隙に自宅の外へ出て行ってしまいます。しばらくたっても帰って来ず、すっかり時間は夜中。やむを得ず警察へ捜索願いを依頼し市内の無線放送などでの広報も行ったところ数時間後に近所の小学校の遊具に腰かけているところを発見されました。
外出したものの途中で道がわからなくなり、帰れなくなってしまったようです。
家族はこれを機に、家族だけでの介護に限界を感じ、介護保険を申請しました。定期的にサービス先へ通所するようになってからは徘徊が少なくなっていきました。
生活の支障が大きくなり、施設へ入所
84歳になる頃には、食事や排泄、更衣に至る生活の基本動作がままならなくなります。
食事を食べることに関心がなくなり、促さなければ摂取してくれません。感情の表現も非常に乏しくなってました。
更衣は後ろ前、表裏が逆であることはしばしばで、ズボンを上半身に着ようとすることも。
また排泄の後始末や準備ができずに失敗することも多くなり、さらには自室で排便をして汚染してしまうようになります。
これに見兼ねた家族は仕方なく、周辺近隣施設への入所をケースワーカーとともに検討し、数か月後に入所することにしました。
入所するころには孫や嫁のことが分からなくなっていました。施設へ訪問すると誰が訪れたのかわからず他人行儀であいさつをしてくることもありました。
食事摂取が難しくなり誤嚥性肺炎に
85歳になるころには食事の摂取がうまくできなくなってきました。
それまでは食事介助で口元までスプーンをもっていけば口を開けてくれたが最近では目の前の食べ物に注意もいかず、一口一口が非常にゆっくりになってきました。
早く食べさせようとするとむせてしまうため1回の食事の時間も1時間程度かかるようになりました。
そんなある日39℃台の発熱と酷い痰がらみ、ゼーゼーした呼吸がみられ施設から連絡を受けます。
総合病院へ受診したところ肺炎を起こしていることを指摘されました。いわゆる誤嚥性肺炎です。
経管栄養をするかの決断。そして最期の時
一旦入院の上点滴と抗生物質の投与を行い1週間程度でどうにか呼吸状態は良くなったものの食事は食べられないまま。
医師より今後食事を口から食べることは困難であることを告げられ、この後生きていくためには経鼻胃管を鼻から胃まで入れた上でそこから流動食を注入すること(以下:経管栄養)で必要なカロリーを摂取し身体を維持する必要があると言われます。
さらにこれまで入所していた施設では経管栄養を行うことは管理上困難で、その管理を継続する場合には別の療養型病院への転院は必要であると告げられます。
家族としてはどうするべきか非常に迷い、悩みました。
自分たちとしては生きていて欲しいが現状の状態から認知症が改善する見込みはなく、このまま寝たきりの状態がどこまで維持されるかはわかりません。
療養費もばかにならず、当然それが家族の生活費を圧迫することも今後考えられます。しかし、経管栄養を実施しないことは見殺しにするようで罪悪感を感じます。
そんな時、まだ元気であった頃に自分がもし寝たきりになった場合には無理な延命はしないで欲しい。管だらけにはしないで欲しい。」と言っていたことを思いだしました。
その想いを受け、家族は経管栄養は実施しない決断をしました。
その後、手足からの簡単な点滴を行いながら療養型病院へ転院、別れの準備期間とでもいうかのように穏やかに時間が流れていきます。
そして入院から2カ月が経過したある日、85歳で息を引き取りました。認知症発症から5年の時が流れていました。
以上が私が知っている典型的なアルツハイマー型認知症の患者さんの経過です。
認知症は次第に生活能力が失われていく症状
さて、読んでいただいてわかったと思いますが、認知症はただ物忘れをするだけの病気ではありません。
個人差こそありますが発症後、確実に症状は進行していきます。
認知症とは一度培われた知識や経験・能力が徐々に失われていく病気であるので、同時に人間関係を維持するために必要な社会性や基本的な生活動作までのすべてが数年の経過の中でゆっくりとできなくなっていきます。
もちろん生きるためには食事が取れていることが大前提となりますが認知症の末期は食べるという行為すらわからなくなってしまいます。
残念ながらそれを根本的に食い止めるすべはなく、医療関係者は患者さん本人、そしてその家族にもどれだけその不安な状況を理解し、寄り添えたか、そして数年のうちにその生活能力が失われていく現実を本人、家族へ理解してもらいそれに対して準備を促してしていくことが重要な役割となります。
在宅か施設か。家族と本人の状況から無理のない判断を。
ここでいう準備とは、どこで、どのように最期を迎えていくのかの意志決定を促していくことが大きなポイントなると私は考えます。
例では患者さんは病状に合わせて施設入所そして療養型病院への転院が実施されましたが、そこに在宅医療の介入ができていたならひょっとしたら在宅での看取りの環境を用意できていたかもしれません。
ただ徘徊行動や排泄に関する問題は、多くの患者や家族にとっても受け入れがたく介護に対して限界を感じることも多々あるようです。
患者さんと家族の関係が良好に保てるようにする目的でタイミングを見計らい施設入所を検討することも大切です。
参考文献
厚生労働省HP みんなのメンタルヘルス
